(第11回)強気の弱気


私は、いま弱気ではありません。どんどん買うべきだと考えています。
しかし、株価の一寸先は闇です。思いがけない下げが来るときがあります。そのときにどうするか、その覚悟はつねに必要です。
今年の1月、ライブドアの不正発覚による急落は、結果的に絶好の買い場になりました。今度もまた下げたら、買えば儲かるのかもしれません。しかし、私は、今度大きく下げたら、売ることを選択肢にしておきたいと思います。
相場観というより、単なるリスクヘッジのためです。


営業マンだった頃、「様子を見ていて、下がりだしたら売ってくれ」と私に頼む顧客がいました。もしそのまま受注したら「任せ玉」もしくは「計らい注文」という違法行為になりますが、そう頼みたくなる顧客の気持ちは痛いほど伝わりました。
だれでも上がり続けている限りは売りたくない反面、売りそこなうのも心配です。個別銘柄でもそうですが、相場全体ではもっと心配です。したがって、普通の投資家は、相場の方向性を無意識のうちにも気にしています。上げ相場であれば資金を拡大し、下げ相場では資金を引っ込めたいとつねに目配りしています。
相場の方向性に対する認識、すなわち相場観の原点は、投資家が本来は非常に大切にしているはずの、いわばバランス感覚です。ところが、人は感情の動物である限り、往々にしてそのバランス感覚を忘れ去り、眼前の株価に振り回されてしまいます。急落すれば売りたいという恐怖心理に駆られ、急騰すれば買わなければ損という群集心理に駆られます。ただし、安値を叩いたり、高値づかみをしたりしても、上げ相場の過程でのそれらの過失は、長い眼では一過性の傷に過ぎません。いちばん怖いのは、相場が大天井を打って下落に転じているのにもかかわらず、自分自身の相場観ではなく、「下げたところは買い」という上昇相場での成功体験になずんだ惰性の強気で、資産運用上の深手を負ってしまうことです。


私は、いまの相場が大天井を打つことを心配しているわけではありません。我々のよく知っている大天井は、89年12月と2000年4月ですが、現在の相場環境との大きな違いは、株価の先行きについての神がかり的な信仰が市場を席巻し、合理的な説明のつかない株価が大手を振って一人歩きしていたことです。89年の年末には、日経平均5万円説が平然と語られていましたし、2000年春には、株価1000万円を目指すという光通信の社長演説を鵜呑みにする投資家が多数存在しました。
それに対して現在の株価は、たえず業績とにらめっこするような足取りで、比較にならないほどリーズナブルに形成されています。世界が大不況に突入し業績が急悪化するという極端な想定をしない限り、銘柄ごとの投資価値が株価の下支えになるはずで、下落局面があっても性質的には調整の範囲に収まると考えてよさそうです。
加えて、日本の場合はこれから政策金利の上昇期を迎えようとしており、株価が大天井を打つとは考えにくい時期にあります。(通常の株価サイクルは、金融相場→利上げ→業績相場→大天井。バブルの89年は、好況の中で低金利政策が続けられ、株価が下落に転じた後に利上げへの政策転換がなされた異常なケース)


ただし、現在の相場がいきなり大天井に向かうリスクは小さいとはいえ、金融相場としての上昇期が終わり、本格的な調整局面が近づいているリスクは覚悟しておかねばならないはずです。経済が順調に推移するなら、ゼロ金利解除が早ければ今年秋にも考えられます。金利が上昇すれば、株価は少なくとも上がりにくくなります。
調整がいつどのような形で来るのかはだれにも分らないことです。我々にできることは、それに備えて、思い思いの哲学で方針を選び、行動することでしかありません。
私は、平均株価で見ればもはや目標水域に近いと感じる一方、個別銘柄では依然大きな上値魅力を感じます。したがって、大きな下げに見舞われるまでという条件で、ポジションを思いきり強気に傾けておきたいと考える次第です。