(第8回)株価は株価に聞くものか


「株価は株価に聞け」といいます。言葉としては全然面白くありませんが、内容的には含蓄があり、教えられることの多い相場格言だと思います。
我々は、ともすれば、思い込んでしまいます。たとえば、よい材料があるのだから株価は必ず上がるはずだと考えます。そこまではよいとして、つまづきの始まりは、株価が思ったように上がらない場合に、「こんなところで売っている奴は、なにも知らない阿呆か意気地なしだ」などと自分本位に考え始めることです。
自分が正しい→相場が間違っている→必ず上がる、と信じて頑張り続ける人は、運がよければ成功します。中には、相場が間違っているのだから腕づくで株価を上げてやろうと思い始める人もいて、ときとして成功します。しかし、運や腕力で一時的な成功をすればするほど、謙虚な気持ちは失われます。その挙句、現実を無視した相場介入で大きな犠牲を払ったいわゆる「相場師」や「仕手本尊」は数えきれません。
自分の考えに溺れず、相場を客観的に観察することは、非常に大切です。だから、「株価は株価に聞け」という格言はおそらく将来に語り継がれると思われますし、私自身も日々肝に銘じたいと考えています。


今回は、その格言にあえてアンチテーゼを掲げます。
たとえばA氏。この人は「株価は株価に聞け」の申し子みたいな投資家です。過去の株価に詳しく、チャートをものすごく研究しています。○○○で△△△だから買い信号が出たというような分析を次々と語ります。ただし、売買はめったにしません。買い信号や売り信号のたびに売買しても、成功率はそれほど高くないと悟っているからで、実際に売買を実行するためには、チャート以外の人間的な判断を必要としているのです。その結果、A氏が売買に踏み切るのは、わりと素人っぽいタイミングになってしまいます。株価が上がってだれの眼にもよく見え始めてから、押し目を狙って買おうとし、だれの眼にも悪く見え始めてから、戻りを売ろうとするのです。
A氏にとっての「株価は株価に聞け」は、事実上、株価の流れをよく見て、市場の大勢に逆らわない投資を実行しようとする姿勢を意味するにすぎません。


A氏の場合に限らず、「株価は株価に聞け」はしばしば、流れに逆らわず、大勢に従って売買しろ、というニュアンスを含んで語られます。
流れに逆らわないということは、投資スタイルとしては順張りを意味します。ただし、大きな問題は、その姿勢が「長いものには巻かれよ」という典型的な日本人の処世術に通じていることです。すなわち、日本人投資家の多くは、順張りは順張りでも、横並び的に一斉に順張り的な考え方に同化してしまう傾向を持っています。
たとえば株価が下落した場合、欧米の市場では上昇局面と同じく強気と弱気が激突して出来高が増加するのに対し、日本市場では買いが一斉に引っ込み、出来高が縮小します。日本人の気質を卑下したくはありませんが、「長いものには巻かれよ」という大勢順応あるいは横並び傾向は、多くの日本人に共通していると思われます。


株価は本来、鏡にすぎず、鏡に映っているのは自分も含めた全員の株価判断です。ところが、横並びで的な考えをする人が増えれば、鏡であるはずの株価そのものが判断材料にされすぎるあまり、鏡に反映されるべき投資家ごとの生き生きとした判断の割合が少なくなります。そして、ついにはだれの判断でもない株価状況ができ上がり、その状況が人を動かすという現象が生じます。
バブル期の極端に強気が充満した市場や、3年前の極端に自信喪失した市場は、思考のパターンとしてかつての軍国主義に通じるといっても過言ではないはずです。


株価は鏡にすぎないのですから、意見を株価に聞く前に、まず自分自身を大切にすべきです。株に対するに詳しい知識があろうとなかろうと、ありのままの自分の思考や感性になんらかの意味があるはずです。そして、自分自身を多くの人が大切にしてこそ、その反映である株価に耳を傾けるべき意味が生じるといえましょう。
株価を軽視するわけではありませんが、眼前の株価の状況とは一線を画して、自分自身の判断や価値観を表出する気概を持ちたいものです。私はそういう意味で、株価は、株価に聞くものではない、と考えます。